「昔西山の向こうに狐の像がある池があったよね?」 
「あった。あった。平屋の家もあって別荘と呼ばれていた。遠足とかで行った覚えがある。広い敷地だったけど、手入れされていた。」
「今のどの辺なんだろう?」
「㈱三五のあたりと聞いたけど・・・」





今では西山土地改良が行われ当時の幹線道路も大きく変わってしまったが、25年くらい前、八幡前の交差点北側から西山へ続く道があった。
その道は現在の㈱三五のあたりを通り、三好下墓地(現在の園原)に続いていた。
西山の向こうは「熊崎山」と言われ、柿畑が広々と続いていた。
その道から横にそれた小道を行くと、お狐さんの石像があり、その奥に太鼓橋がかかった池があった。
芝生の張った小高い丘には松の木が植えられ、平屋の屋敷が一軒。
ここがかの有名な衣ヶ原飛行場を建設した、熊崎惣二郎氏の別荘である。
熊崎氏は昭和5年に衣ヶ原一帯に11万坪の土地を購入し、昭和10年に国の許可を受け、現在のトヨタ自動車元町工場あたりに衣ヶ原飛行場を建設した人である。

     

 熊崎惣二郎氏 (三好下老人いこいの家)

三好山荘園開拓者

                    民間飛行家  熊崎惣二郎 

一、昔贅沢と見なされたる自動車も 今は無くてはならない交通機関

一、昔贅沢と見なされたる別荘地も 今は無くてはならない避難場所

  一朝国家に事ありて 空より受けくる爆弾も 

  覚悟の上なら何のその 弱きを助けて避難所へ

  働け働け国の為め 匡救事業の開墾地

  老後安楽三好山 花鳥相手に長生よ

  我等が山荘朝霧に 明けくれば続く松林

  四季の折々の花咲きて 鶯、目白の放し飼ひ

  匡救事業で出来ました 大と小の差はあれど

  琵琶湖に勝る三好湖 稲穂を養ふ水源地


        愛国志士平時の覚悟(三好下老人いこいの家)
「熊崎山」と呼ばれていた一帯は正式には八和田山と言われ、昭和の初め熊崎惣二郎氏は5ヶ年計画事業として約10万坪の土地を実費にて区画整備し、主観道路、別荘、遊園地などを建設した。
その他二町歩のため池に稲荷神社を築造し、昭和12年5月に完成させた。
また、熊崎氏は田地一町二反歩を三好下に寄付された。
戦後農地法により県が売収。その後地元民に配分された。
先に寄付した田地一町二反歩は町の麈埃処理場となった後、中部電力の変電所に売却された。
これによる土地代金は三好下事業、かんがい事業、道路舗装などに役立てられ、愛知用水の導入により広く果樹栽培が行われる基となる。

熊崎山農地開墾の由来 山田紀夫書より

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熊崎惣二郎氏頌徳碑     昭和50年4月   (三好下公民館前)

お屋敷のあった場所は、現在の㈱三五とトヨタ自動車明知工場間を通る市道あたりか。
ここには明知の子供たちだけではなく、豊田市堤町の子供たちも遠足に来ていたらしい。
また草競馬やオートレースも行い、 多くの人が見学に行ったようである。

今は跡形もなく、若い人はこの話を知らない人が多いが、昔はこんな夢を持った人がいたと言う記憶を残しておきたい。




参考文献

三好町誌 第二巻

聞き取り協力 三好下老人いこいの家
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